つれづれなるままに。。。, 子供とエネルギー

もしも寿命があと3ヶ月だったら

早朝のバスの中で、いままでに何度も考えたこのことをまた反芻してみた。

「もしも寿命があと3ヶ月だとわかったら、どう生きるだろうか?」


人間の考えや感情や物事へのリアクションは刻々と変わるもの。

この同じ質問に対して頭に浮かぶビジョンも刻々と変わる。

結婚する前の10代、20代前半の時には、ほぼ全く死なんて現実味のないものだった。うちの家系は平均寿命くらいは生きるみたいで、小さい時に大切な近しい親族を失うという経験を私はしていない。

思い起こせば、幼稚園の時に、同じクラスの男の子が川で溺れて亡くなったという記憶が出て来るが、自分が小さすぎて、またあまり周りの子と交流がなかったのか、子供とは自分の世界に没頭しているからなのか、「その子が園から消えたんだ」ということしか頭になかった。

周りの園の女の子達が「あんな奴居なくなってよかったよね」と意地悪げにコソコソ笑いながら話していた。いやー、子供って残酷ですね。死が何だかわからないから口走っていただけなんですよね。

さて、結婚して子供を持つと、あと寿命が3ヶ月だったらどうしようか?というのが現実味を帯びてくる。家族への責任や義務や愛情。残す子供に沢山手紙やビデオレターを残すだろうな、とか、パートナーや両親に感謝と娘を宜しく、と何度も伝えるだろうな、とか。

娘がある程度大きくなり、体外離脱を経験して、エネルギー体になってみたり、オーラ リーディングの仕事をしたり、スクールで透視やヒーリングを教えたり、と「親」という「仕事」以外のものに携わるようになると、また考えは変わってくる。

今度は娘や家族だけでなく、生徒さんへの責任が出てくる。自立して生きていくために、ある意味スクールという庇護の場に頼らなくとも良くなるように指導しているわけだが、スピリチュアルな成長、霊的なシフトの階段を登ることは、本気で取り組めば辛いものである。

楽しいこともワクワクすることももちろんあるし、段々と人生が楽になるのは間違いないのだか、目の前の課題を本気でこなしていく、消化していくにはいくつものハードルを超えないといけない。

超えるのは他の誰でもないつい1秒前の自分。1ヶ月前の自分。3年前の自分なのだ。自分を護る厚いコートを探して着ることより、脱皮していくことが何より大変なのだ。身軽になるとは無防備になることでもあるから。

というとちょっと違うか。無防備な格好になっても強い自分を作るということだ。

そのプロセスがとても身体的、心理的に辛いことはよく知っている。だから、そのプロセスに進もう、とPARAMITAのスクールに来てくださった方々には、私が肉体を離れて、スクールという後ろ盾や、先生というものを失くしても大丈夫なようになって欲しい。私はグルでも「立派な霊的な指導者」というものでもないが、人に何かを教える限りは、自分の死後生徒さんが困らないように、毎回のクラスでやるべきことはやっている。

生徒さんに残せるものはスキルであり、1人でも生きていかれる、人はみんな強い存在なんだよ、と思える自信だ。

それは、今まで通り、なくなる日までやればいい。と落ち着く。

オーラ リーディングなどの個人セッションに来てくださるお客様には、毎回のセッションでベストを尽くし、いつかセッションのことなんて、私のことも忘れて、笑って生きていてもらえればいい。

大切な友人知人は、私の性質や考えは多少わかってると思う精一杯生きたよね、メグ!って言ってくれるんじゃないかな。うん、そうだよ。そう心で思ってくれたら嬉しいな。それで十分。お墓とかお葬式とか来なくていいからね。お香典もお花も要らないよ。お墓は要らないし、ないよ。←段々と遺書のようになってるけど^ ^ 

(あれ、バスの横の人がお墓の整理の話とかしてる 笑)

最後が、1番肝心な私が私のために私の最期の3ヶ月をどう過ごすか、というところですね。家族や周りの人にできることをやる。それはやるから。やらざるを得ないし、やりたいと思うし。責任は果たしたい。

娘には、私がいなくても強く生きていかれるよう、今できるだけの経験はさせている。そして、いつでもママに会える「秘密基地」って場所をいくつか作ってる。私がいなくなっても、そこに流れる小川や、落ち葉や空気に私を感じてくれるだろう。その感性を保てるような育て方はしている。

だけど、私が最優先したいのは「自分」です。

私の命は高い現地から見下ろせば宇宙の産物のひとつで、全体の1つのコマ。だけど、私には固有の自由意志と人格というものが備わっている。

最期の3ヶ月は、多分、全てが美しいものに見えると思う。花も、木も、海も、動物も、人間も。街での人の姿も、喧嘩も、楽しい会話も悲しい顔も。自分に迷惑をかけてきた人も、逆に自分が無礼を働いてしまった相手も、全てがきっとかけがえのないものだったということを全身全霊で受け止めるだろう。

そして、なるべく自然の中で植物と動物に囲まれて過ごすだろう。時々、体力の許す範囲で旅行やスポーツを楽しむだろう。人として、人との交流は辞めないけど、思考を持つ存在とは距離は置くと思う。思考を持たない、ジャッジしない、競争しない穏やかなエネルギーを持つ存在に囲まれることを望むだろう。

高齢者が、庭いじりを楽しむのは、自然な流れのような気がする。

悔いのないように、やりたいことを全てやり尽くして、「あー、楽しかったよ!」って終わらせます。

バスの横の席のおじさんとおばさんは、お互いに親を見送った時の話とか、自分のお墓のことをまだ話してます。途中から乗ってきたんです。

こういうこをシンクロって言う。

「今日の20分をブログに費やしたのは、今を精一杯生きているということ。満足感あるでしょ」と天使に言われている気がする。

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