そして、日本に帰ってくると、私が住む都会や東京近郊だと、グレーの疲れたエネルギーにどっと包まれてしまう。
この数年強く感じるのは、子供達が楽しそうに生きていないということだ。少子高齢化で子供の数自体が減り、昔なら子供はその数で「子供らしさ」を存分に出すことができていたように感じるのだが、今は核家族も増えたし、親や社会が求める「あるべき子供の姿」にはまっている子が多い気がする。
とはいえ、独立したひとつの生命であり、個性や主張もあって当然なのだが、どうも最近の子供達の目や言葉には生気が宿っていない。
眺めていると、子供達の親である私の世代以上の人達に元気がないことが原因な気がしてならない。40代、50代、60代の大人達が、肩を落とし、暗い顔で、イライラしながら電車に乗っている。バスにも乗っている。お店でも楽しそうに食べている家族を見ることが少なくなった。
日本人は、今、働き方、生き方を変えることを迫られている。真面目に毎朝満員電車に揺られ、残業し、ストレスを抱えながら、周りの目を気にしながら働いていた時代よりも更に悪い経済状況にいるのだ。残業をさせてもらえなくなった。給料は落ちる。残業あってこそ返せた住宅ローンがもはや返せないため、お母さんたちもパートに出る。パートも、条件の良いところは少なくなった。気づけば、借金の返済や、毎月の食費のために働くことに追われ、夢や希望が描けない大人が増えてしまったのだ。
それなのに、メディアはくだらない番組ばかりを流している。本当の情報はうまく操作され、表に流れないようになっている。じりじりと貧困に向かっている現状に国民が気づかないようにされているのだ。
生きるために必要なことは、健康と希望と仲間(家族)だと私は思っている。若いうちは健康がある。仲間や家族はそれなりにいる人が多いと思う。もちろん、SNSが主流のコミュニケーションに問題がないとも思わないが、全く話す相手がいないという人だけではないと思うのだ。
でも、希望がなくなると、光がなくなる。希望はエネルギーだ。困難や落ち込むことがあっても、遠くで「ここまで来ると楽しい何かがあるよ!」という旗のようなもの。その旗を目指して歩むことができる。旗がなければ、健康や仲間がいても、フラフラとさまようことにならないだろうか。
レオ・レオ二の「ペツェッティーノ」は、自らの存在を理解するために旅に出たが、それは存在することに希望と納得を見いだそうとしたのではないかな、と個人的には感じている。
安定してるから、聞こえがいいから、今までそれでやってきたから、というだけで同じ働き方を続けている人がいるとしたら、今のうちに立ち止まって一度よく考えてみて欲しいと思う。あなたのその働き方はあなたに希望の旗を見せてくれてるかな?
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「部分品」とは、大好きなレオ・レオ二の書いた「ペツェッティーノ」からとってます。「ペツェッティーノ」に関しては、こちらをご覧ください http://www.asahi-net.or.jp/~uz4s-mrym/page/osusume/osusum299.html